スマートフォンで地図を見ながら歩く、感情をSNSに文字で吐き出す、テレワークで一日中画面の前に座り続ける——現代日本人の生活は、どんどん「頭の中」だけで完結するようになっています。解剖学者・養老孟司さんはこの現象を「脳化社会」と呼び、長年にわたって身体性の喪失を警告してきました。本書は、そうした問題意識を日本人の身体観という切り口からあらためて掘り下げた一冊です。
「身体を忘れる」とはどういうことか
脳化社会という診断
養老さんが長年使ってきた言葉が「脳化社会」です。これは単に頭脳労働が増えたという話ではありません。人間の営みのあらゆる領域が「情報」「言語」「記号」に置き換えられ、身体的な感覚や経験が後回しにされていく社会構造のことです。
たとえば、痛みや疲労を感じても「気のせいだ」「仕事が終わってから」と先延ばしにする。自然の変化よりも天気アプリの数字を信じる。感動したとき、まず「これはどういう意味か」と言語化しようとする。こうした習慣の積み重ねが、身体からのシグナルを受け取る回路を少しずつ鈍らせていくのだと養老さんは言います。
「忘れる」のは記憶の問題ではなく、日常的な優先順位の問題です。脳(情報・言語)を常に優先し、身体(感覚・経験)を後回しにし続けることで、やがて身体の声が聞こえなくなる——それが「身体を忘れた状態」です。
日本人の身体観の変容
本書で養老さんが特に着目するのが、日本人の身体観が歴史的にどう変わってきたかという問題です。かつての日本人は、農耕・漁業・手仕事を通じて身体と環境が深く結びついた生活を送っていました。季節の変化、土の感触、道具の重さ——これらは生活そのものであり、身体を通じた学びが文化の核にありました。
武道や茶道、能といった伝統芸能が「型」を重視するのも、この身体知の蓄積と切り離せません。知識を頭で理解するのではなく、身体に刻み込む。それが日本の文化的な学びの原型だったと養老さんは論じます。
ところが近代化・情報化の過程で、こうした身体を介した学びの場が急速に失われました。農業をしなくてもスーパーで食べ物が手に入り、地図を読まなくてもナビが道案内をする。便利さが身体的な試行錯誤の機会を奪い、知識は「検索すれば出てくるもの」に変わっていったのです。
「言葉にできないもの」の重要性
身体知と暗黙知
養老さんが本書で強調するのが、身体が持つ「言葉にできない知」の豊かさです。自転車の乗り方は言葉で説明できますが、それを読んだだけで乗れるようにはなりません。料理の塩加減、楽器の微妙な音程、人との距離感——これらはすべて、身体を動かして失敗を重ねることでしか習得できない知識です。
哲学者マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知(tacit knowledge)」と呼びました。養老さんはこの概念を使いながら、現代社会が「明示的に言語化・数値化できる知識」だけを過大評価し、「身体を通じてしか伝わらない知」を軽視してきたと指摘します。
学校教育でも同じ問題が起きています。テストで測れる知識は重視されるが、姿勢・呼吸・所作といった身体的な教養は後回しにされる。その結果、頭では多くを知っていても、身体的な対処能力が育たない子どもや大人が増えているのです。
感情と身体の切り離し
現代人が身体を忘れているもうひとつの証拠として、養老さんは「感情の言語化」過剰を挙げます。何かを感じたとき、まず言葉に変換しようとする——これ自体は必ずしも悪いことではありませんが、感情はそもそも身体的な現象です。怒りは胸の緊張として、悲しみは喉の詰まりとして、喜びは軽さとして、まず身体に現れます。
その身体的な感覚をじっくり感じる前に言葉に変換してしまうと、感情の全体像を取りこぼすことになります。SNSで「すごく悲しい」「腹立つ」と投稿することで感情を処理したつもりになるが、身体レベルでは何も解消されていない——この構造が、現代人の慢性的な「なんとなくしんどい」感覚の一因だと養老さんは示唆します。
脳化社会が生み出す問題
自然と都市の逆転
養老さんが繰り返し語るテーマのひとつが「自然」と「都市(人工物)」の関係です。自然は人間の思い通りにならないもの、予測不可能なものの代表です。虫は計画通りに動かず、天気は予報を外し、植物は思わぬ方向に伸びる。
一方、都市や情報空間は「人間の脳が作ったもの」であり、基本的には人間の思い通りに動きます。電車は時刻通りに来て、アプリは命令通りに動く。養老さんはこの「思い通りになる環境」への過度な適応が、不確実性への耐性を下げ、身体的な問題解決能力を弱めていると論じます。
子どもが外で泥だらけになって遊ぶ経験、道に迷いながら見知らぬ街を歩く経験、虫や動物と格闘する経験——こうした「思い通りにならない身体的体験」こそが、柔軟で強い人間を育てる土台だという主張は、情報化が進む現代にこそ重く響きます。
手を使うことの意味
本書で印象的なのが、「手を使う」ことへの着目です。養老さん自身が昆虫採集を長年の趣味にしているのは有名ですが、それは単なる好みではなく、「手と目で世界を直接触る」ことへの確信からきています。
デジタル化が進む中で、人間の手が行う作業は急速に減っています。書き物はキーボードに、計算は機械に、地図の読解はアプリに移譲されました。しかし脳科学の知見では、手の精細な動きは脳の広い領域と深く連動しており、手を使うことが思考力や創造性とも結びついているとされています。養老さんはこの観点から、「手を使わない生活」が人間の知的・身体的な総合力を静かに蝕んでいると警告します。
まとめ
『「身体」を忘れた日本人』が問いかけるのは、豊かさや便利さと引き換えに私たちが失ってきたものの重さです。言語化・数値化・情報化できないものに価値があり、身体的な経験を通じてしか得られない知恵があるという養老さんのメッセージは、AI・デジタル化がさらに加速する時代において、ますます切実な問いになっています。
本書を読み終えると、スマートフォンを一度置いて外に出たくなる、あるいは何か手を動かすことをしたくなる——そんな衝動が自然に湧いてきます。「脳だけで生きている」という感覚が心のどこかにある人に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。