人はなぜ権力を手にすると変わってしまうのか。なぜ地位や名声を得ても満足できず、さらに求め続けるのか。脳科学者の中野信子さんが書いた『脳の闇』(2023年、新潮新書)は、こうした人間の「暗い側面」を脳科学と進化心理学の視点から真正面に論じた一冊です。善悪や道徳の話ではなく、「なぜそうなるのか」という仕組みを知ることで、自分自身や他者への見方が変わってきます。
「脳の闇」とは何か
中野さんがこの本で取り上げるのは、権力欲・支配欲・承認欲求・嫉妬・スキャンダルへの興味といった、いわば人間の「暗い欲望」です。こうした感情や衝動は一般的にネガティブなものとして語られますが、著者はそれを道徳的に断罪するのではなく、「なぜ脳はそう動くのか」という問いから解き明かそうとします。
鍵となるのは「快楽と報酬」の問題です。権力を行使すること、他者より優位に立つこと、称賛を浴びること——これらはすべて脳の報酬系を刺激し、ドーパミンを分泌させます。前著『人は、なぜ他人を許せないのか?』で「正義中毒」を論じた中野さんが、今度は支配する側の脳の仕組みに踏み込んでいるのがこの本です。
権力が人を変える仕組み
権力者の脳で起きていること
本書で特に印象的なのが、「権力を持つと共感能力が低下する」という研究の紹介です。権力を得た人間は、相手の気持ちを想像する能力——つまり共感——が実際に弱まることが神経科学的に示されています。これは性格の問題ではなく、脳の変化です。
なぜそうなるのか。人が弱い立場にいるとき、相手の感情を読み取ることは生存に直結します。上司の機嫌、同僚の意図、顧客の本音——それらを察知するために、私たちは常にアンテナを張っています。ところが権力を持つと、他者の感情に依存する必要が薄れるため、共感回路が使われなくなり、機能が低下してしまうのです。
これは「権力者は冷たい」という経験則が、単なる印象ではなく脳の仕組みとして説明できることを意味します。組織のトップや政治家が「現場感覚を失った」と言われる現象も、こうした視点から理解できます。
ドーパミンと「もっと欲しい」のループ
権力欲が止まらない理由も、ドーパミンの仕組みで説明されます。ドーパミンは「得た瞬間」ではなく「得ようとする過程」で最も多く分泌される物質です。つまり目標を達成したときより、目標に向かって進んでいるときに脳は最も強い快感を覚えます。
このため、権力や地位をある程度手に入れた人が「まだ足りない」と感じるのは意志の問題ではなく、脳の仕組みそのものです。達成するたびに次の目標が生まれ、快感を求めてさらに上を目指す——このループから抜け出すことは、構造的に難しいのです。中野さんは「欲望は満たされることなく、常に更新され続ける」と表現しています。
承認欲求・嫉妬・スキャンダル好きの神経科学
なぜ承認が止まらないか
SNSで「いいね」をもらうと嬉しく、もらえないと不安になる——この感覚の正体も本書で丁寧に解説されています。他者からの承認は社会的動物としての人間にとって、食事や安全と並ぶ根本的な欲求です。集団から切り離されることは、かつては死を意味しました。承認を求める脳の回路は、その名残です。
問題は、SNSの設計がこの回路を意図的に刺激するよう作られている点です。「いいね」の数、フォロワー数、拡散数——これらは全て承認の数値化であり、比較しやすい形で可視化されています。中野さんは、SNS上での承認競争が「本来満たされるはずのない欲求を、永遠に追いかけさせる装置」になっていると指摘します。
嫉妬の正体と社会的機能
嫉妬は多くの人が「みっともない感情」として隠そうとします。しかし中野さんは、嫉妬も進化的に意味のある感情だと論じます。嫉妬の対象は、自分と近い立場の相手に向きやすいという特徴があります。遠い存在(大富豪や超有名人)にはあまり嫉妬しないのに、同期や友人の成功には強く反応する。これは「自分も届き得る存在」への嫉妬が、競争意欲を引き出す仕組みだからです。
また、嫉妬は不平等への感受性と結びついています。社会のルールが守られているかを監視し、ずるをしている者を見つけ出す——その機能が嫉妬という感情として現れることもあります。道徳的な怒りと嫉妬の境界は、思っているほど明確ではありません。
他人のスキャンダルに惹きつけられる理由
有名人の不倫や失墜のニュースが、なぜこれほど人々の関心を集めるのか。本書はその理由も脳科学で説明します。高い地位にある人物の失墜は、社会的序列の変動を示します。かつての集団社会では、誰がどのポジションにいるかを把握することは生存に関わる重要情報でした。序列の変動——特にトップの失脚——は、脳にとって優先度の高い情報として処理されるのです。
加えて、権力者の失墜には「自分より優れた者が転落した」という相対的な安心感を脳にもたらします。これもまた道徳的な問題ではなく、脳の報酬系が関与した反応です。スキャンダル報道が止まない背景には、こうした神経科学的な需要があります。
「闇」を知って、どう生きるか
本書が他の自己啓発書と大きく異なるのは、「だからこうしなさい」という処方箋をあまり強調しない点です。中野さんは「これらの衝動は消えない。消そうとしても無駄だ」という立場をとります。
では何ができるのか。著者が示唆するのは「自分の脳の癖を知ること」です。権力を持ったとき共感が落ちやすいと知っていれば、意識的に他者の声を聞こうとできます。承認欲求がSNSで刺激されると知っていれば、依存の構造に気づきやすくなります。嫉妬を感じたとき、それが「自分が本当に望むものへの手がかり」だと解釈することもできます。
「闇」を否定するのではなく、「闇の仕組みを理解した上で付き合う」という姿勢——それが本書の根底にある視点です。
まとめ
『脳の闇』は、人間の欲望や権力への衝動を「悪いもの」として断罪するのではなく、脳科学という客観的なレンズで観察した一冊です。中野信子さんの文章は常に読みやすく、難解な神経科学の知見を日常の言葉に落とし込む力があります。「自分はなぜこう感じるのか」「あの人はなぜああ動くのか」——そんな問いを持ったことがある人なら、必ず何かが腑に落ちる本です。前著『人は、なぜ他人を許せないのか?』と合わせて読むと、人間の脳と社会の関係がより立体的に見えてきます。