試験前に縁起を担ぐ、スポーツ選手がルーティンにこだわる、厄除けのお守りを持ち歩く——こうした「おまじない」的な行動は、現代人の日常にも深く根付いています。では、それらは単なる思い込みにすぎないのでしょうか。脳科学者の中野信子さんが書いた『まじないの科学』は、古くから人間社会に存在してきた「まじない」を脳科学と心理学の視点から読み解き、その意外な効果と人間本来の認知の仕組みに光を当てた一冊です。
「まじない」とは何か——科学が向き合う問い
「まじない」という言葉を聞くと、呪術や迷信の世界を連想する人も多いでしょう。しかし本書が問うのは、それが「本物かどうか」という二択ではありません。「なぜ人間はまじないを必要とし、それがどんな仕組みで機能するのか」という、より深い問いです。
人類の歴史を振り返れば、まじないや儀式は文化を問わず普遍的に存在してきました。雨乞いの儀式、出産前のお守り、勝負の前の験担ぎ——場所も時代も異なれど、人間は常に「見えない力」に働きかけようとしてきました。この普遍性こそが、まじないを単純に「迷信」として切り捨てられない理由のひとつです。
中野さんは民俗学・認知心理学・神経科学の知見を横断しながら、まじないという行為の背後にある人間の認知構造を丁寧に解き明かしていきます。
プラセボ効果——「信じる力」は本物の力になる
思い込みが現実を変える
本書で繰り返し登場する概念が「プラセボ効果」です。プラセボとは、有効成分を含まない偽の薬のこと。にもかかわらず、それを「効く薬だ」と信じて服用した患者が実際に症状の改善を示すことが、数多くの医学研究で確認されています。
これはまじないと直接つながります。縁起のよいお守りを持っていると安心できる、「この言葉を唱えれば大丈夫」と信じることで緊張が和らぐ——こうした心理的な変化は、脳の働きを通じて身体にも実際の影響を与えます。ストレスホルモンが減少し、集中力が高まり、パフォーマンスが向上することがある。「気のせい」で終わらない、れっきとした生理的変化です。
スポーツと儀式の科学
プロスポーツの世界では、試合前のルーティン行動が広く研究されています。打者がバッターボックスに入る前に必ず同じ動作をする、テニス選手がサーブ前に一定回数ボールをつく——こうした行動は迷信ではなく、心理的な「準備スイッチ」として機能しています。ルーティンを行うことで不安レベルが下がり、集中状態に入りやすくなる効果が実験的に示されているのです。
中野さんはこうした事例を通じて、「まじないは無意味ではなく、使い方によっては合理的な心理ツールになり得る」という視点を提示します。
認知バイアスが「効果」を生み出す仕組み
確証バイアスと記憶の選択
まじないが「効いた」と感じるもうひとつの理由が、認知バイアスの存在です。なかでも重要なのが「確証バイアス」——自分の信念を支持する情報だけを選択的に記憶・解釈する傾向です。
お守りを持っていた日に良いことが起きれば「やっぱり効いた」と記憶に刻まれます。一方、何も起きなかった日や悪いことが起きた日のことは「たまたま」として処理されやすい。この非対称な記憶の蓄積が、まじないへの信頼を強化し続けます。
これは道徳的に批判されるべき「騙されやすさ」ではなく、人間の脳が本来そういう構造を持っているという話です。不確実な世界でパターンを見つけようとする本能が、確証バイアスとして現れているのです。
制御感と不安の関係
中野さんが特に印象的な洞察を与えてくれるのが、「まじないは不安への対処機能を持つ」という指摘です。人間は自分でコントロールできない状況に強い不安を覚えます。受験、スポーツの試合、手術——こうした場面で「何かできることをする」という行為そのものが、無力感を和らげ、心理的な安定をもたらします。
たとえ科学的には根拠がなくても、「自分は何かをした」という感覚が、脳の不安回路を落ち着かせる。まじないの多くは、この「制御感の擬似的な回復」として機能しているのです。
儀式が持つ社会的・文化的な力
集団をつなぐ儀式の役割
まじないや儀式には、個人の心理効果だけでなく、集団を結束させる社会的機能もあります。同じ儀式を共有することで、「私たちは同じ仲間だ」という連帯感が生まれます。
結婚式・葬式・入学式といった通過儀礼はその典型です。儀式の「型」を共に行うことで、参加者はその場の意味と感情を共有し、社会的なつながりを確認します。宗教的なまじないや祈りの行為も、コミュニティの凝集力を高める機能を担っていると中野さんは論じます。
現代に生きるまじないの形
SNS時代の現代でも、まじない的な行為は形を変えて存在しています。受験生が「合格祈願」の投稿に「いいね」を集めること、スポーツ観戦中に特定のポーズを取り続けること、ラッキーアイテムを手放せないこと——これらはすべて、脳の「制御感」と「つながり」を求める本能の現代的な発露です。
中野さんはこれらを笑い飛ばすのではなく、「それもひとつの合理的な適応だ」という視点で受け止めます。迷信を持つことが知性の低さの証拠ではなく、不確実性と向き合う人間の知恵の産物だという見方です。
まとめ
中野信子さんの『まじないの科学』が教えてくれるのは、まじないや迷信を「信じるか信じないか」の二項対立で語ることの浅さです。プラセボ効果・認知バイアス・制御感の回復・社会的結束——これらの視点を重ねると、まじないが人間の心理と社会に果たしてきた役割の豊かさが見えてきます。
「科学的に証明されていない=無意味」ではない。人間の脳と社会の仕組みをひとつの鏡として映し出す「まじない」という現象を通じて、自分自身の認知の癖や、信じることの力について、改めて考えさせてくれる一冊です。同じ著者の『脳の闇』『人は、なぜ他人を許せないのか?』と合わせて読むと、人間の脳が持つ不思議な仕組みがより立体的に浮かび上がってきます。