<?xml version="1.0" encoding="utf-8" standalone="yes"?><rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>養老孟司 on hagizo.blog</title><link>https://blog.gizwoo.com/tags/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%AD%9F%E5%8F%B8/</link><description>Recent content in 養老孟司 on hagizo.blog</description><generator>Hugo -- gohugo.io</generator><language>en</language><lastBuildDate>Fri, 22 May 2026 02:44:10 +0900</lastBuildDate><atom:link href="https://blog.gizwoo.com/tags/%E9%A4%8A%E8%80%81%E5%AD%9F%E5%8F%B8/index.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>【読書メモ】ものがわかるということ——養老孟司が問い直す「理解」の本質</title><link>https://blog.gizwoo.com/mono-ga-wakaru-yoro-takeshi-bk8mqp3njx/</link><pubDate>Thu, 21 May 2026 17:39:57 +0900</pubDate><guid>https://blog.gizwoo.com/mono-ga-wakaru-yoro-takeshi-bk8mqp3njx/</guid><description>&lt;p&gt;「わかった！」と感じる瞬間は誰にでもある。しかし、「わかる」とは脳のなかで何が起きていることなのか、と問われると途端に答えに詰まります。解剖学者・養老孟司さんの『ものがわかるということ』は、この「わかる」という行為そのものを、脳科学・哲学・言語論を横断しながら根本から問い直した一冊です。日常的に使っている「理解する」という言葉の裏に、どれほど深い問いが隠れているかを思い知らされます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="わかるとは自分が変わること"&gt;「わかる」とは自分が変わること
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="本書の核心命題"&gt;本書の核心命題
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;本書でもっとも重要な主張は、「わかるとは自分が変わることだ」というシンプルかつ根本的な命題です。私たちはふだん「わかる」を「情報を頭に入れる」「知識を得る」といった受動的なプロセスとして捉えています。しかし養老さんはそれを真っ向から否定します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何かを本当に理解したとき、人は以前とは違う見方をするようになります。「なるほど、そういうことか」という瞬間に起きているのは、単なる情報の追加ではなく、既存の認識の枠組みそのものの組み替えです。世界の見え方が変わり、自分の思考や行動のパターンが変わる——その変化こそが「わかった」という状態の正体だと養老さんは言います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆に言えば、「聞いた」「読んだ」「覚えた」だけで自分が何も変わっていないなら、それは「わかった」ではない。情報を受け取ったにすぎない、ということになります。この区別は、現代の情報過多な社会において非常に鋭い指摘です。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="情報と意味の違い"&gt;情報と意味の違い
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;「情報」と「意味」は別物だ、というのも本書の重要な視点です。データや事実は情報として脳に入ってきます。しかし、その情報が「意味」を持つのは、受け取る側の文脈・経験・身体状態と結びついたときです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;養老さんは「同じ言葉でも、人によって意味が違う」という当たり前の事実を出発点に、意味とは個人の経験と不可分なものだと論じます。「愛」という言葉がどんな意味を持つかは、その人がどんな経験をしてきたかに完全に依存している。だから意味は辞書に書いてあるものではなく、身体と経験の中に宿るものです。これが「わかる」という行為が、本質的に身体的なプロセスであることの根拠になっています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="脳が同じを見つけるメカニズム"&gt;脳が「同じ」を見つけるメカニズム
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="同じの認識が思考の基礎"&gt;「同じ」の認識が思考の基礎
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;本書で養老さんが特に力を入れて論じるのが、「同じ」という認識の問題です。人間の思考の根本には「これとあれは同じだ」という判断があります。概念を形成するとは、複数の異なる事物の中に「同じもの」を見出すことです。「犬」という概念は、柴犬もプードルもチワワも「同じ犬だ」と認識することで成り立っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この「同じ」の認識は、実は非常に複雑で恣意的なプロセスです。自然界に全く同一のものは存在しません。あらゆる物体は、原子レベルでは互いに異なります。それでも私たちが「同じ」と判断できるのは、脳が一定の特徴を抽象化して共通のパターンを抽出するからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;養老さんはここに、人間の認識の根本的な能動性を見ます。「同じ」は世界に存在するのではなく、脳が作り出すものです。私たちは世界をそのまま受け取っているのではなく、常に能動的に分類・解釈しながら認識しています。「わかる」という行為はその延長にあり、受動的なインプットではなく、能動的な意味の構成なのです。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="言葉と概念の落とし穴"&gt;言葉と概念の落とし穴
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;「同じ」の認識と深く結びついているのが言語です。言葉はある範囲の現象に同じ名前を与えることで機能します。「怒り」という言葉が指す感情の幅は広く、かすかな苛立ちも激しい憤怒も同じ「怒り」として扱われます。この粗さが言語の便利さであり、同時に危うさでもあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;言葉で考えるとき、私たちはその言葉が指し示す現象の細部を捨象しています。養老さんはこれを「言語化は常に情報を失う」と表現します。言葉にできないもの——微妙な感触、かすかな違和感、言語化以前の直感——こそが「わかる」の根っこにある、と養老さんは主張します。言葉は「わかった」を表現するツールではあっても、「わかる」そのものではない。この区別が、本書の重要な論点のひとつです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="意識と無意識そしてわからないこと"&gt;意識と無意識、そして「わからない」こと
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="意識は氷山の一角"&gt;意識は氷山の一角
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;「わかる」という行為を深堀りすると、意識と無意識の問題に必然的にたどり着きます。養老さんによれば、人間の脳が処理している情報のうち、意識に上るのはほんの一部にすぎません。外界からの膨大な感覚入力のほとんどは、意識に上ることなく処理されて捨てられるか、無意識の領域で蓄積されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが意味するのは、「わかる」という経験には、自分でも気づいていない大量の処理が伴っているということです。直感や「なんとなくそう感じる」という判断は、意識的な推論ではなく無意識の処理の産物です。養老さんはこれを否定的に捉えるのではなく、むしろ「意識できないことの方がはるかに多い」という認識そのものが、「わかる」への謙虚な姿勢につながると論じます。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="わからないは知的誠実さの証"&gt;「わからない」は知的誠実さの証
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;本書が他の「理解」論と一線を画すのが、「わからないこと」への態度です。養老さんは「わからない」と言える人間こそが、真に「わかろうとしている」人間だと主張します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すべてをわかったつもりになっている人は、実は「わかる」という行為から遠ざかっています。なぜなら、「わかる」とは自分が変わることであり、変わり続けることを受け入れることだからです。「もうわかった、これ以上変わらなくていい」という態度は、思考の停止です。一方、「まだわからない、もっと違う見方があるかもしれない」という開かれた姿勢こそが、真の理解に向かう姿勢だと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;養老さんはこの文脈で、科学の態度を引き合いに出します。科学が強力なのは、仮説を立てて検証し、間違いを認めて修正するというプロセスを持っているからです。「わからない」を認める誠実さが、「わかる」を深めていく原動力になる——これは認識論の問題であるとともに、生き方の問題でもあります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="自分もまたわかるの産物"&gt;「自分」もまた「わかる」の産物
&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;本書で養老さんが最終的に向き合うのが、「自分とは何か」という問いです。「わかる」主体である「自分」もまた、脳の働きによって構成されたものです。「私」という感覚、自己同一性の感覚は、脳が「昨日の自分と今日の自分は同じだ」と判断し続けることで生まれています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし細胞レベルでは、身体は常に変わり続けています。「同じ自分」は、ある意味で脳が作り出す虚構でもある。この逆説——「変わることが『わかる』ことであり、同時に自分の同一性は変わらないことで成り立っている」——に、養老さんは人間の認識の根本的な矛盾と豊かさを見ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「自分とは何か」がわからなければ、「ものがわかる」とはどういうことかも本当にはわからない。本書が最終的に問いかけるのは、そうした認識の根底にある謎です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="まとめ"&gt;まとめ
&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;『ものがわかるということ』が示す「わかる」の像は、情報の蓄積でも知識の獲得でもなく、「自分が変わること」です。「同じ」の認識が思考の基盤を作り、言語はその一部しか捉えられず、意識は氷山の一角にすぎない——こうした視点を重ねると、「理解する」という日常的な行為がいかに深く複雑なプロセスであるかが見えてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「わかった」と思った瞬間こそ、思考が止まる危険があります。「まだわからない」という問いを持ち続けることが、真の意味での「わかる」への道だという養老さんのメッセージは、知識と情報が氾濫する現代において、より深く響く言葉です。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>【読書メモ】「身体」を忘れた日本人——養老孟司が問う、脳化社会のゆがみ</title><link>https://blog.gizwoo.com/body-forgotten-japanese-yoro-takeshi-nv6ktm2wrp/</link><pubDate>Thu, 21 May 2026 17:23:28 +0900</pubDate><guid>https://blog.gizwoo.com/body-forgotten-japanese-yoro-takeshi-nv6ktm2wrp/</guid><description>&lt;p&gt;スマートフォンで地図を見ながら歩く、感情をSNSに文字で吐き出す、テレワークで一日中画面の前に座り続ける——現代日本人の生活は、どんどん「頭の中」だけで完結するようになっています。解剖学者・養老孟司さんはこの現象を「脳化社会」と呼び、長年にわたって身体性の喪失を警告してきました。本書は、そうした問題意識を日本人の身体観という切り口からあらためて掘り下げた一冊です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="身体を忘れるとはどういうことか"&gt;「身体を忘れる」とはどういうことか
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="脳化社会という診断"&gt;脳化社会という診断
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;養老さんが長年使ってきた言葉が「脳化社会」です。これは単に頭脳労働が増えたという話ではありません。人間の営みのあらゆる領域が「情報」「言語」「記号」に置き換えられ、身体的な感覚や経験が後回しにされていく社会構造のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえば、痛みや疲労を感じても「気のせいだ」「仕事が終わってから」と先延ばしにする。自然の変化よりも天気アプリの数字を信じる。感動したとき、まず「これはどういう意味か」と言語化しようとする。こうした習慣の積み重ねが、身体からのシグナルを受け取る回路を少しずつ鈍らせていくのだと養老さんは言います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「忘れる」のは記憶の問題ではなく、日常的な優先順位の問題です。脳（情報・言語）を常に優先し、身体（感覚・経験）を後回しにし続けることで、やがて身体の声が聞こえなくなる——それが「身体を忘れた状態」です。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="日本人の身体観の変容"&gt;日本人の身体観の変容
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;本書で養老さんが特に着目するのが、日本人の身体観が歴史的にどう変わってきたかという問題です。かつての日本人は、農耕・漁業・手仕事を通じて身体と環境が深く結びついた生活を送っていました。季節の変化、土の感触、道具の重さ——これらは生活そのものであり、身体を通じた学びが文化の核にありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;武道や茶道、能といった伝統芸能が「型」を重視するのも、この身体知の蓄積と切り離せません。知識を頭で理解するのではなく、身体に刻み込む。それが日本の文化的な学びの原型だったと養老さんは論じます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが近代化・情報化の過程で、こうした身体を介した学びの場が急速に失われました。農業をしなくてもスーパーで食べ物が手に入り、地図を読まなくてもナビが道案内をする。便利さが身体的な試行錯誤の機会を奪い、知識は「検索すれば出てくるもの」に変わっていったのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="言葉にできないものの重要性"&gt;「言葉にできないもの」の重要性
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="身体知と暗黙知"&gt;身体知と暗黙知
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;養老さんが本書で強調するのが、身体が持つ「言葉にできない知」の豊かさです。自転車の乗り方は言葉で説明できますが、それを読んだだけで乗れるようにはなりません。料理の塩加減、楽器の微妙な音程、人との距離感——これらはすべて、身体を動かして失敗を重ねることでしか習得できない知識です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;哲学者マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知（tacit knowledge）」と呼びました。養老さんはこの概念を使いながら、現代社会が「明示的に言語化・数値化できる知識」だけを過大評価し、「身体を通じてしか伝わらない知」を軽視してきたと指摘します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;学校教育でも同じ問題が起きています。テストで測れる知識は重視されるが、姿勢・呼吸・所作といった身体的な教養は後回しにされる。その結果、頭では多くを知っていても、身体的な対処能力が育たない子どもや大人が増えているのです。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="感情と身体の切り離し"&gt;感情と身体の切り離し
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;現代人が身体を忘れているもうひとつの証拠として、養老さんは「感情の言語化」過剰を挙げます。何かを感じたとき、まず言葉に変換しようとする——これ自体は必ずしも悪いことではありませんが、感情はそもそも身体的な現象です。怒りは胸の緊張として、悲しみは喉の詰まりとして、喜びは軽さとして、まず身体に現れます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その身体的な感覚をじっくり感じる前に言葉に変換してしまうと、感情の全体像を取りこぼすことになります。SNSで「すごく悲しい」「腹立つ」と投稿することで感情を処理したつもりになるが、身体レベルでは何も解消されていない——この構造が、現代人の慢性的な「なんとなくしんどい」感覚の一因だと養老さんは示唆します。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="脳化社会が生み出す問題"&gt;脳化社会が生み出す問題
&lt;/h2&gt;&lt;h3 id="自然と都市の逆転"&gt;自然と都市の逆転
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;養老さんが繰り返し語るテーマのひとつが「自然」と「都市（人工物）」の関係です。自然は人間の思い通りにならないもの、予測不可能なものの代表です。虫は計画通りに動かず、天気は予報を外し、植物は思わぬ方向に伸びる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方、都市や情報空間は「人間の脳が作ったもの」であり、基本的には人間の思い通りに動きます。電車は時刻通りに来て、アプリは命令通りに動く。養老さんはこの「思い通りになる環境」への過度な適応が、不確実性への耐性を下げ、身体的な問題解決能力を弱めていると論じます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子どもが外で泥だらけになって遊ぶ経験、道に迷いながら見知らぬ街を歩く経験、虫や動物と格闘する経験——こうした「思い通りにならない身体的体験」こそが、柔軟で強い人間を育てる土台だという主張は、情報化が進む現代にこそ重く響きます。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id="手を使うことの意味"&gt;手を使うことの意味
&lt;/h3&gt;&lt;p&gt;本書で印象的なのが、「手を使う」ことへの着目です。養老さん自身が昆虫採集を長年の趣味にしているのは有名ですが、それは単なる好みではなく、「手と目で世界を直接触る」ことへの確信からきています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デジタル化が進む中で、人間の手が行う作業は急速に減っています。書き物はキーボードに、計算は機械に、地図の読解はアプリに移譲されました。しかし脳科学の知見では、手の精細な動きは脳の広い領域と深く連動しており、手を使うことが思考力や創造性とも結びついているとされています。養老さんはこの観点から、「手を使わない生活」が人間の知的・身体的な総合力を静かに蝕んでいると警告します。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id="まとめ"&gt;まとめ
&lt;/h2&gt;&lt;p&gt;『「身体」を忘れた日本人』が問いかけるのは、豊かさや便利さと引き換えに私たちが失ってきたものの重さです。言語化・数値化・情報化できないものに価値があり、身体的な経験を通じてしか得られない知恵があるという養老さんのメッセージは、AI・デジタル化がさらに加速する時代において、ますます切実な問いになっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本書を読み終えると、スマートフォンを一度置いて外に出たくなる、あるいは何か手を動かすことをしたくなる——そんな衝動が自然に湧いてきます。「脳だけで生きている」という感覚が心のどこかにある人に、ぜひ手に取ってほしい一冊です。&lt;/p&gt;</description></item></channel></rss>