SNSで誰かが炎上しているとき、どこかスカッとした気持ちになったことはないでしょうか。脳科学者の中野信子さんが書いた『人は、なぜ他人を許せないのか?』(2020年、アスコム)は、そうした「許せない」という感情の正体を脳科学の観点から丁寧に解き明かした一冊です。「自分は正しい、あいつが悪い」という確信がなぜこれほどまでに気持ちよく感じられるのか——その問いに答えながら、私たちが取れる具体的な対策まで示してくれます。
「正義中毒」とは何か
本書の核心にあるキーワードが「正義中毒」です。これは、社会のルールや規範から外れた人物を見つけ出し、罰することに強い快感を覚える脳の状態を指します。中野さんはこの言葉を使って、現代社会で頻発する集団的なバッシングや炎上現象を神経科学的に説明します。
「正義」という言葉には揺るぎない正しさのイメージがあります。しかし中野さんが指摘するのは、人が「正義を行使している」と感じているとき、実は脳内でドーパミン(快楽物質)が分泌されているという事実です。つまり誰かを糾弾する行為は、脳にとって一種の「ご褒美」なのです。一度その快感を覚えると、また同じ状況を求めるようになる——だから「中毒」と呼ばれます。
脳の報酬系が活性化するメカニズム
人間の脳には「報酬系」と呼ばれる回路があります。食事や社会的な承認など、生存・繁栄に役立つ行動をとったときにドーパミンが放出され、「また同じことをしたい」という動機を生み出す仕組みです。
中野さんが紹介する研究によれば、社会的なルール違反者を罰するときにも、この報酬系が活性化することが確認されています。つまり「あの人は許せない、制裁を加えるべきだ」と感じて声を上げることは、食事と同様の快感をもたらし得る行為なのです。これが正義中毒が「やめられない」理由の核心です。
SNS時代に加速する炎上文化
スマートフォンとSNSの普及は、正義中毒の発露の場を劇的に拡大しました。かつては居酒屋や家庭内に留まっていた「あの人は許せない」という感情が、今や世界中に向けて即座に発信・共有できます。
さらに問題なのは、正義中毒的な発言がSNS上で「いいね」や拡散を集めやすいという構造です。強い怒りや非難は人々の共感を呼びやすく、それが「いいね」という社会的承認を通じてさらにドーパミン分泌を促す。炎上が炎上を呼ぶ連鎖の背景には、こうした脳の仕組みが深く関わっています。
なぜ人は他人を許せないのか——脳科学的な理由
「許せない」という感情は単なる道徳的反応ではありません。中野さんは、それが人間の進化の歴史に深く根ざした本能だと論じます。
集団本能と「敵」の認定
人間はもともと数十人規模の小集団で生きる生物でした。その時代、集団の秩序を乱す者は生存を脅かす脅威でした。ルール違反者を素早く発見し排除する能力は、集団全体の生き残りに直結していたのです。この本能は現代にもそのまま引き継がれています。
「あいつは私たちと違う」「ルールを守っていない」と感じた瞬間、脳は相手を「敵」として認定し、排除の衝動を生み出します。SNSで他人を激しく叩くとき、私たちは先史時代の部族防衛本能を現代のプラットフォームで発動させているともいえるのです。
さらに厄介なのは、この「敵認定」が一度起きると、以降は相手の言動をすべて悪意あるものとして解釈するバイアスが強化されることです。中野さんはこれを「認知の歪み」と表現し、正義中毒の状態に陥ると客観的な判断が著しく困難になると指摘します。
前頭前野と扁桃体のせめぎ合い
脳科学の観点では、「許せない」という感情に2つの主要な領域が関わっています。ひとつは扁桃体(へんとうたい)、もうひとつは**前頭前野(ぜんとうぜんや)**です。
扁桃体は感情の中枢です。危険や不快を感知すると即座に反応し、「怒り」「恐怖」「嫌悪」といった強烈な感情を生み出します。一方、前頭前野は理性的思考を担い、衝動の抑制・長期的視点での判断・他者の立場の想像などを行います。ヒトが他の動物と比べて前頭前野が発達しているのも、こうした高度な社会的判断が求められるからです。
「許せない」という感情が爆発するとき、扁桃体は全力で「やっつけろ」と叫んでいます。平静な状態なら前頭前野が「待て、本当にそうか?」と踏みとどまれますが、感情が高ぶるほど前頭前野の働きは抑制されやすくなります。SNSで感情的な投稿をして後で後悔する、というよくある経験はまさにこの構造から生まれます。
正義中毒から距離を置くために
本書が単なる脳科学の解説書にとどまらないのは、「では、どうすればいいのか」という具体的な処方箋も示している点です。
自分の「正義」を疑う一歩
中野さんが繰り返し強調するのは、「自分の正義は絶対ではない」という認識を意識的に持ち続けることです。「あの人は間違っている」と感じたとき、まず一呼吸置いて「なぜ自分はそう感じるのか?」「本当にそうなのか?」「別の見方はないか?」と問い直す習慣が、正義中毒への有効な対抗手段になります。
これは精神論ではなく、脳のトレーニングでもあります。前頭前野を意識的に使う訓練を続けることで、扁桃体の暴走を抑える回路が強化されていくのです。批判や怒りを感じても、すぐに行動せず少し時間を置いて再考する——そのひと手間が、衝動に飲み込まれないための第一歩です。
「異質なもの」に触れる機会を増やす
自分と異なる価値観や生き方を持つ人々に意識的に触れることも、中野さんが勧める実践のひとつです。「自分たちと違う=敵」という回路は、同じ環境・同じ人間関係の中に閉じこもるほど強固になります。逆に、異なる文化・価値観に定期的に触れることで、この回路を弱め、多様性を自然に受け入れられる柔軟な脳へと変えていけます。
旅行や読書、異業種の人との対話、自分が普段見ないメディアをあえて読んでみる——日常の中で「知らない世界」と接点を作る行為が、長期的には正義中毒を防ぐ効果をもたらすと著者は述べています。
まとめ
『人は、なぜ他人を許せないのか?』が教えてくれるのは、「許せない」という感情は道徳の問題である以前に、脳の仕組みの問題だということです。正義中毒は特定の悪い人だけに起きるのではなく、進化の過程で組み込まれた人間共通の脳の反応です。その事実を知っているだけで、衝動に完全に飲み込まれるリスクをぐっと下げることができます。
誰かを激しく非難したくなったとき、「今、自分の扁桃体が暴走しているかもしれない」とわずかでも気づける余白を持つこと。中野信子さんの言葉は、自分自身の脳と静かに向き合うきっかけを与えてくれます。SNSが生活に深く入り込んだ現代だからこそ、一度手に取ってみてほしい一冊です。